FC2ブログ

2019-09

アルのある秋

この10月で、2代目柴のアルが逝って16年になります。1992年はまだバブルもはじけず、帰宅するのは、連日夜中の1、2時、平日の平均睡眠時間は4時間くらいだったと思います。アルに会うのは早朝と深夜、下手をすると土曜日も出勤だったため日曜の散歩くらいでした。

アルも丈夫だったのですが、若い頃あわや窒息死という状況に陥りました。家の前に肉屋さんがあり、肉屋の奥さんがアルのために豚の骨を差し入れてくれていました。我が家では骨を煮て、アルにしゃぶらせていました。


野生の呼び声


ところがある日、アルは骨の一部を齧りとり、飲み込もうとして喉に詰まらせてしまったのです。私は不在でしたが、家族はすぐ獣医さんを呼び、ようやく骨を取り出すことができました。もう少し遅かったら命はなかったそうです。それ以来、我が家ではワンコに飲み込むと危なそうなものは一切与えないことにしました。アルが6か月くらいのとき、ヒキガエルを咥えてしまったのもこの写真の場所です。

最初外犬だったアルですが、常に家族と一緒にいたがりました。アルの小屋はリビングの直ぐ外にあり、小屋はサークルで囲まれていました。リビングには地上1メートルくらいの所に窓があります。子供のころはしたについている通風口を前足で引っかいて中に入れてくれと訴えていたのですが、1歳になるころ、窓枠に飛び乗れるようになりました。窓枠に乗れれば、そのままリビングにある例の黒いソファーで寛ぐこともできます。このようにしてアルは昼間はソファーのうえで過ごすことになりました。窓枠に乗り、庭を監視するのが大好きでした。鎖は外で繋がっています。


窓からの監視


アルは好奇心が強く、歩道橋に上がれば、必ず下を見て車や人の流れを眺めていました。土手からは川原や遠くの山をじっと見つづけていました。高い所と雪が特に好きで、階段を昇るときには、わざと後ろ足で音をたてながら、嬉しそうに飼主の顔をみあげたり、まだ誰も足を踏み入れていない雪原を見ると、楽しいですねという表情を浮かべ、飼主に同意を求めたりしていました。

今から30年前は、小型犬を除き、ワンコは屋外で飼うのが普通でした。アルは時代を先取りしていたのかもしれません。5歳になるまでには夜も家の中で過ごすことになりました。

次の写真は、11歳くらいのときのものです。元外犬だったせいもあり、窓枠に座って、ソファーに手をついています。ソファーのほうが少し低いのですが、このような格好も苦ではなかったようです。リードがついていますので、散歩から帰ってきたところでしょう。この日は遊び足らなかったようですね。真っ黒だった鼻先もすっかり白くなっています。


散歩の準備


アルは何事も善意に明るく解釈するワンコだったのだと思います。晩年には関節も痛めたのですが、明るさを失いませんでした。最後まで楽天的に振舞っていました。歳をとるにつれ、口をもぐもぐさせしゃべっているような声を出すようになりました。なんで私だけご飯が食べられないのとか言いたかったのだと思います。


最後の夏


この写真は1992年6月、15歳のときのものです。この頃は歩道橋を昇ることも窓枠に座ることも難しくなっていました。家族も夏は越せないものとあきらめていました。今写真をみると案外幸せそうな表情にみえます。子犬時代と少なくとも同じくらい可愛くみえます。先ほどレイが同じ場所で同じ格好をしていました。

アルは体の強さと楽天的な性格のためか夏を乗りきることができました。しかし腹部に痛みを感じるようになり、10月に入ると苦しみだし、歩くこともできなくなりました。最後は、意識が無いようだったのですが、私が帰ると上半身だけ起こし挨拶をしながら、喜ぶと同時に、(自分の体が動かなくって)おかしいなあという寂しそうな表情を浮かべました。その翌日アルは逝きました。

どうしても家の中で人と一緒に暮らしたかったアルが夏を越せたのは、その明るさとすこしでもソファーの上で皆といたいという気持ちだったような気がします。この頃はまだペットロスという言葉もほとんど聞きませんでした。アルがいなくなったのを忘れるため、仕事にうちこんだのですが、逆に休日が辛い日々が続きました。バブルがはじけ、今考えるとあの時代はなんだったのかと思わないこともありません。でもそんなことを考えると何事も前向きだったアルに笑われそうですね。秋、日本晴れの空をみると今でも時々アルのことを思い出します。






黒いソファーと犬たち

2代目アルのカラー写真が見つかりました。昭和最後の夏、11歳のときのものです。歳のせいと古い写真ということもあり、往年の真赤な色が少しさめているようです。


アル3
(写真にあった傷を修正しています)


元気者にしては浮かない顔をしています。次は12歳のときのもののようです。さらに歳をとった感じです。


アル4


モノクロの元気そうなアルの写真はまだあるので、次の機会で紹介します。アルの写真を見るだけで楽しくなります。

次は3代目ルーの後姿です。10歳くらいのときのものです。アルは赤柴ですが、ルーは茶柴ですね。


ルーの背中


何を考えているのでしょうかね? 犬に生まれて良かったとでも思っていたかもしれません。落ち着きと哀愁を感じる後姿です。

ワンコの後姿は大好きです。お腹に比べれば分厚い毛と肉で覆われていますが、何か無防備な感じがします。ワンコには決定的な天敵がいなかったのかもしれませんし、集団で行動していたので、後はほかのワンコ任せだったのかもしれません。現在のワンコは、飼主を信頼して後姿が無防備にみえるのかもしれません。このルーの写真をみると背中を撫でたくなります。

アルとルーの写真は、いずれも同じ黒いソファーの上で撮ったものです。かれらが最期を迎えたのもここでした。このソファーは特殊な大きさということもあり、30年以上我が家にあることになります。写真でみても表面がデコボコなのが分かります。黒いソファーの至るところに黒いテープで補修した跡があります。アルとルーにより齧られたのです。

このソファーをワンコがいないときにみると、寒々と大きく見えます。今年の正月は我が家の中で一番寒く寂しい場所でした。

先月からレイにもこのソファーに乗ること許しました。後姿で記念写真です。これからの生活にワクワクしているのかもしれません。身を乗り出しています。レイも茶柴ですね。


お気に入りのソファー

3代のワンコに齧られたソファー、まだまだ活躍してくれそうです。アルやルーを育ててくれたように、最低15年はがんばってもらいます。レイに齧らないように注意します。

ルーの1周忌

今日8月18日は先代ルーの1周忌です。今となっては、あっという間に1年が経ってしまった感じですが、昨年の8月からレイが来た3月の末までは、時計が止まってしまったような、長く寂しい期間でした。ワンコを亡くすことには耐えられても、その後、日々色々なところで感じる寂しさから逃れるのは難しいものです。

よく豆柴と思って育てていたら、普通の柴犬だったという話を聞きますが、ルーは柴犬だと思って育てていたら、いつまでたっても豆柴より小さいままでした。

最初の写真は、1993年6月、2か月のときのものです。


0歳


最初は外出を嫌がりましたが、半年くらいで大の散歩好きになりました。ただお腹が弱く、そのせいもあり、5キロにしかなりませんでした。この大きさだと猫も逃げません。若い頃は、人見知り、犬見知りの犬でした。その代わりいつまでも子供のように見えたため、よく声をかけられました。


1~2歳


一昔前の柴犬は、メスでも10キロを超えるのが普通だったような気がします。室内飼いには確かに5キロくらいの柴犬は適していますが、猫も逃げない大きさでは、従来の柴犬の性格を期待するのは無理だと思います。ルーは花火、雷、動物病院、子供の声が大の苦手でした。ただ庭に侵入する猫に対しては強気で、見つかるたびに庭に出て追いかけるのを楽しみにしていました。

苦手なものが多かったルーですが、散歩と食事は大好きでした。怖いものがたくさんあるはずなのに、散歩はいつも大喜び。お腹が弱いのに食欲は旺盛。両方とも矛盾しているのですが、この二つの特徴があったから、体が強かったとはいえないルーが14歳まで生きられたのだと思います。

次の写真は10歳のとき、好きな川原に来たところです。


10歳


体が小さいわりには、体力はあり、晩年まで普通の速さで1時間以上の散歩が日課でした。今から考えると、散歩を連れて行く人に応じて、歩く速さを変えていたようです。歳をとるにつれ苦手なものも減っていきました。12歳のとき、一時痩せて、歩く速さも遅くなってしまったのですが、ビタミン剤を与えたところ、効果が出て、体重、歩く速さとも回復しました。回復した頃は、先先代のアル同様、15歳を迎えられると思っていました。

ところが14歳の誕生日を迎える2か月ほど前の昨年の3月、白内障が悪化し、暗いところでは目がほとんど見えなくなりました。悪化した当初は、庭を歩くのにも苦労するような状況でしたが、1週間ほどで目がみえないなりの歩き方を覚え、まるでよく見えているように歩きはじめました。気が弱い性格だったため、精神的にまいってしまうかと心配したのですが、杞憂でした。耳が悪くなったためもあり、雷や花火の恐怖からも解放され、かえってのびのびしていたような気がします。

次の写真は、一昨年の12月、ルーにとって最後の冬の時期のものです。


晩年


こうしてみると、顔も白くなり、老化が明らかですが、毎日一緒に生活していると以前と変らないように感じていました。散歩の途中では、相変わらず、子犬ですかと聞かれました。声をかけてくれる人たちは、ルーの顔をみて老犬と分かり、それにしてはきびきび歩いているので、「偉い、偉い」とよく誉めてくれました。目が悪いのに気づく人もいませんでした。

昨年の6月に急に咳き込むようになり、動物病院に行ったところ、肺に水が溜まっているとのことで、安静を命じられました。去年の7月は梅雨明けも遅れ涼しかったのですが、8月に入ると猛暑が続き、ルーの体力はみるみる衰えました。最後まで、散歩に行きたがり、前日まで家族の外出を見送ろうとしていました。はじめて粗相した翌日、逝ってしまいました。散歩が好きで、動物病院が嫌いだったルーにとっては長い療養は辛いものになったでしょうから、意外と思うくらいあっさり逝ってしまってもしょうがなかったのだとも思います。

ルーは家族のことを全く無条件に信頼していたことは間違いないと思います。それに充分応えられたかは、まだ分からないというのが正直なところです。



はじまりはチータ

初代の柴犬はチータです。1962(昭和37)年に生まれ1975年に12歳で逝きました。私の小、中、高時代とほとんど重なっています。

チータを迎えるにあたっては、悲しい前史があります。最初に飼ったMIXの雄犬が1か月ほどで逝ってしまったのです。犬を飼う知識もなく、ワクチンのことも知らずに、衰弱させてしまいました。チータは元々獣医さんの飼い犬でした。兄と私が犬を失いがっかりしているのを見かねて譲ってくれたのです。

チータの両親は、血統書のある柴犬だったのですが、チータは尻尾なども柴犬らしくなく、血統書を出したくないということで、獣医さんが、ご自身のお子さんのために飼おうとしていた犬です。チータという雌らしくない名前も既についていました。アルもルーもこの獣医さんを通して家に来ました。

チータ2


家に来たときチータは既に4か月でした。元気で人懐こい犬で、獣医さんのところで私達に会うと飛び上がって皆の顔を舐めまわしました。父の運転する車で家につき、車を降りると、いきなり縁側で待っていた祖母と母のところに駆けつけ、愛想を振り撒きました。チータはたった1分で家族に溶け込んでしまいました。この写真のような顔でいきなり挨拶に駆けつけたのです。

チータ1

 
チータは最晩年を除き外の犬小屋で暮らしました。その頃は、屋外と屋内の区別も、庭と外の区別も今より曖昧でした。縁側やテラスからは家の中が見渡せ、庭には変わるがわる近所の人たちが来ていました。

チータは「持って来い」が得意でした。ボール、サンダルを次々持ちかえりました。訓練をすれば猟犬としても活躍できたのではないかと思います。一昔前の柴犬は外観も性格も今より素朴だった感じがします。

子犬をなくしていた私達は、チータを慎重に育てました。散歩の量も充分ではなかったかもしれません。今から考えると恐い話ですが、チータはしばしば夜脱走して朝に帰って来ました。夜遊びの結果、2回出産し、7匹の子犬を育てました。子犬は近所の人、知人に引き取られました。

3歳くらいのとき、脱走後10日ほど行方不明になってしまいました。毎日放課後に兄と自転車で探しまわったのですが、みつからず、あきらめかかっていました。ところある日、ふと門の方を見ると、チータが躊躇しながら中を覗き込んでいたのです。声をかけると全身を震わせて縁側に向って駆けて来ました。皆に声をかけられて、なぜられると満面の笑みで、一人ひとりの顔を舐めました。お腹を減らしていた様子もないので、おそらくどこかの家で保護されていたのを振りきってきたのだと思います。その後、脱走防止対策を強めたこともあり、2度と脱走することはありませんでした。

チータはその頃、家で飼っていた猫とも仲良しでしたが、私が中学のときに拾ってきた雄のMIXアワワとは仲良しになれませんでした。アワワは最後まで野良犬時代に身につけた習慣が抜けきれませんでした。チータに対しては一目置き、お互いの領域を侵さないようにしていました。ただ、一人で2頭を散歩に連れていくのは難しく、私がアワワの散歩担当となりました。アワワは筋力などは強かったのですが、先天的に病気を抱えていて、3歳で逝ってしまいました。その後私はまたチータを散歩に連れていくようになりました。

チータは、5歳くらいのとき、右前足を痛めてから、快活さが減ってしまいました。歳をとるごとに辛くなっていたようです。怒られると、右前足を痛そうにあげました。そうすると飼主が同情して怒るのをやめると知っていました。時々、間違えて左前足をあげてしまい、「逆だろう」と言われ、バツの悪い顔をしました。ワンコも人に対し充分駆引きをするのですね。そのチータも私が受験の準備をしているときに逝ってしまいました。おそらく私が受験に失敗するを見たくなかったからだと思います。時代は石油ショックを迎え、チータが駆け抜けた高度成長期が終わろうとしていました。

チータは私にとって兄弟でした。私が庭で危ない遊びをしていると鳴いてやめさせようとしたこともありました。当時の12歳は決して短命ではありませんが、チータにはもっと色々やってあげられたことがあったと思います。ただ、チータはそんなことを思っていないだろうとも思います。今回はこの辺までとします。アワワのこともまた紹介したいと思っています。

思い出のアル

今回は先々代犬のアルの思い出です。レイは毎日元気に散歩の仮免許練習中です。

アルは1977(昭和52)年生まれで、1992年10月に逝きました。15年半の一生でした。性格は明るく、行動的、遊ぶのが大好きでした。ドライブ、散歩、階段昇り、カエルやバッタ狩、雪など、いつも嬉しそうに飛び回っていました。何でも遊びにしてしまう名人でした。

体は燃えるような赤で、目が窪み三角形でした。そのため見上げると大変間の抜けた表情になり、マヌアルと呼ばれていました。ルーは茶色で、「しばわんこ」のぬいぐるみと全く同じ色でしたが、アルはまさに赤柴と呼びたくなる色でした。子犬のとき、黒いところの多い犬は赤くなると言われているようですが、アルが我が家に来たときには、顔が真っ黒で、近所の人からタヌキの子供かと聞かれました。

アル1


1977年ですから、カラーの写真もあるはずなのですが、見つからなかったので、とりあえずモノクロの写真です。この写真でも鼻が真っ黒なのはお分かりいただけると思います。

アルは、ブリーダーや展覧会に興味がある人たちから何回か声をかけられました。色、体格、被毛が良かったようです。一度見合いもしたのですが、縁がなく、結局子供は残しませんでした。

アルは、最初外飼いだったのですが、自らの力で室内犬となりました。上がって来られないと思っていた窓枠を飛び越えて、リビングのソファーに着地、以後昼間は室内、夜は犬小屋の時代を経て、5歳のときに完全室内犬になりました。写真は窓枠を乗り越えて室内にいたときのものです。

アル2


アルは、何か嬉しいことがあると必ず飼主を見上げ、同意を求めました。まだ誰の足跡のついていない雪面があると、必ず飼主を見上げ、「楽しみですね」という表情をしました。腰の力を抜き、落ちるようなお座り、座ったままの上半身(前半身?)ストレッチングなど特徴のある動作をしました。

アルは、私が学生時代、無理がたたって片目を曇らせてしまっていたときに迎えた犬で、その後、就職、新入社員時代など悩みがあったときを共ににしました。どんなことからも遊びを見つけ、楽天的なアルとこの時代を過ごせたことはラッキーでした。

その後5年半ほどの大阪勤務時代、アルとは離れ離れになったのですが、帰宅すると大喜びし、大阪に向うときは、必死になって途中まで追いかけてきました。アルは追っかけながら、ある段階になると、あきらめて急に横を向き、「それなら勝手にしろ」という感じで、引き返し、2度と振りかえろうとしませんでした。

いつも明るかったアルも、祖母が亡くなってからの1月ほどは、元気を失くし、憂鬱そうにしていました。晩年は関節を痛め、激しい遊びはできなくなりましたが、散歩を何よりも楽しみにしていました。15年目の夏、急に衰え、夏を超せないと思いましたが、なまじ体力があるため、10月まで療養生活をおくり、最後は痛みに苦しんでしまいました。

アルは、散歩か、別の用かを、決して間違えなかったのですが、亡くなる1週間前、私が容体を見に行ったときに、散歩と間違えて大喜びしました。そのとき、アルの命が終わりに近づいているのが分りました。動かなくなった体の上半身だけ力強く起し、帰宅の挨拶をした翌日、アルは逝ってしまいました。時代は、ちょうどバブルが終焉しつつあるときでした。私も学生から働き盛りになっていました。アルの快活さ、元気さが、その時代の私の大きな活力源だったのだと思います。

チータの紹介が残っていますが、アルバムから写真をはがさなくてはなりません。アルも次はカラー写真を準備できると思います。

«  | HOME |  »

プロフィール

アルルス

Author:アルルス
レイは2008年2月7日生まれの5姉妹の長女?です。
今のところ社交的、外出大好きですが、意外と慎重なところがあります。

最近の記事

最近のコメント

カテゴリー

カレンダー

08 | 2019/09 | 10
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 - - - - -

月別アーカイブ

FC2カウンター

いくつになったの

リンク

このブログをリンクに追加する

RSSフィード